尾山台今昔物語_2120050131

玉川全円耕地整理
豊田正治(とよだしょうじ)翁[玉川村村長]の郷土発展の記録
〜 自分たちの郷土は自分たちでつくる 〜
「玉川全円耕地整理」の偉業を調べました。

豊田正治翁
明治15年(1882)〜昭和23年(1948)等々力出身_ 父・周作[東京府議会議員]の長男として生まれ、大正12年(1923)40歳で、玉川村第7代村長に推され三選し、昭和7年(1932)東京市議一期を歴任しました。


豊田正治翁の偉業を記した
玉川総合支所玄関に碑石が飾られている


右は玉川神社境内にある
「豊田正治翁頌徳碑」


村長就任そうそう、村会で玉川村全域の耕地整理(道路・農地・宅地開発)を全会一致で決めました。これが「玉川全円耕地整理」です。

整理前

整理後


「玉川全円耕地整理」の規模は
大正時代の玉川村は戸数約1,300戸、人口は約7,000人の農村でした。
農地に大掛かりな土木工事で道を作り、橋を架け、台地をならし道路がほぼ現在の升目のよう整地を行いました。幹線道路と地域の道路が計画的に設計され取り付けられました。道路と宅地開発に30年の歳月をかけた大事業が完成しました。
豊田村長に大きな影響を与えたのは、ヨーロッパ帰りの渋沢栄一といわれています。

昭和10年(1935)ごろののどかな尾山台
、耕地整理前の農地
写真提供:東京急行

昭和10年(1935)ごろの奥沢、
耕地整理前の農地
:「郷土開発」から

玉川全円耕地整理事業の規模は、現在の世田谷区の面積の約4分の1(1000町歩)を占める玉川村全域を対象としたもので、わが国の都市計画史上でも特筆に価する事業です。 当時、近隣の村から玉川村にまでおよんできた宅地化の波を、会社にまかせず農民自身の手で開発しようというねらいでした。

野良田(中町)の耕地整理工事
:「郷土開発」から

瀬田中区耕地整理工事
:「郷土開発」から

理想郷づくりの方針は

構想は「都心より離れて、健康上理想的な田園都市を創る」ことを理想に
●自動車時代に適合する幅広い道路網
●大公園の建設
●整然とした街区を形成する区画
などあまりに遠大であったため、玉川村一帯が近い将来全面的に宅地化するという計画が信じられなかった人々から強い反対もありました。

昭和初期に耕地整理の幹線道路として
両側を桜並木に整備
(現在の環八通り=尾山台2-28付近)
写真提供:世田谷区歴史資料館

現在の環八通り=尾山台2-28付近
6車線の大動脈です

耕地整理の大工事の1つ
尾山台駅前通を目黒通りへ出る手前右に長衛門窪跡があります。この辺りは昭和3年から耕地整理土木工事が行われました。以前は断崖で荷馬車が谷に転落したエピソードが残っています。
右写真は長衛門窪跡
(等々力6-12先)

関東大震災と鉄道の開通
計画を決議した大正12年(1923)には、目蒲線・目黒〜武蔵丸子(沼部)間の鉄道が開通し、9月1日に起った関東大震災により多くの被災者が分譲の宅地に移り住み定住しました。さらに耕地整理が加速されました。
昭和2年(1927)東横線(渋谷〜神奈川)開通、昭和12年(1937)大井町線が開通し都心の郊外の位置づけが定着していきました。
戦争で一時中断しましたが昭和29年(1954)用賀中区の耕地整理登記をもって耕地整理は完了しました。
先頭に立って実行した豊田村長は耕地整理半ばで他界されましたが、その後を毛利博一氏が取りまとめ、今日の整然とした街並みが完成しました。

豊田村長は玉川全円耕地整理事業のほか、
●尾山台地区より目黒区碑衾(ひぶすま)村に亘る高圧線の地下埋設
●村営鉄道を計画、後に大井町線の開通を促進
●馬事公苑(用賀元陸軍衛生材料敞並びに帝国競馬会)の敷地斡旋
●等々力不動公園の開設
など多くの事業を行いました。

取材協力   玉川神社

参考文献   耕地整理完成記念「郷土開発」  玉川全圓耕地整理組合
       せたがやゆかりの人       世田谷区区長室広報課編
       世田谷区まちなみ形成史     世田谷区

『尾山台今昔物語』プロジェクト 担当 =M